毒々しい濃赤色の実を選んで摘み取り、ぼくは口いっぱいにヘビイチゴを頬張った。十一歳の初夏の頃。
校庭の合歓の木には妹が好きだったピンクの花が満開だった。彼女が好んで描いたおとぎの国のピンクのバク、の長い睫毛のような不思議な花。
ヘビイチゴは真っ赤に熟していたのに、青くなる前の白い未熟なイチゴのような、甘くも酸っぱくもないぼそぼそした食感をしていた。ぼくは躊躇わず、ひとおもいに呑み込んだ。
どれだけ畦道にしゃがんでいただろう。見上げる空には羊たちの群れが何処までもつながり、風がぼくの前髪を揺らした。
ぼくはイチゴのような真っ赤な血を吐いて死ぬはずだった。
母は迷信を鵜呑みにしていたのだ。
口元を拭うと、掌が無駄に紅に染まった。
***
日曜の午後の田んぼ道、土手の熟したヘビイチゴの実を美味しいよって、偽って妹に食べさせた。妹は縁日の真っ赤な金魚のように口を開けて、嬉しそうに頬張った。
母が妹の口を抉じ開け、果実を指で掻き出し、噛み砕かれた果肉は背中を叩きながら吐き出させた。
ぼくは初めて母にぶたれた。母の手はよく撓う鞭のようで、頬に熱いものが走ったかと思うと、左側だけジーンと痺れてぐにゃぐにゃに膨張した。耳の中でクラス中の嫌な連中がトライアングルを狂ったように鳴り響かせていた。ぼくは自分の痛みより母の動揺に驚愕した。ぼくは取り返しもつかない事をやってしまったのだ。
妹は初めはきょとんとしていたが、二人のうろたえぶりに驚き、大声で泣き出した。妹が死んだらどうしよう。ぼくも声を上げて泣いた。
大丈夫!全部取ったから。
唾を吐きなさい。ぺって。
そうそう。もういっぺん吐いて。
苦しい?
そう、もう大丈夫。
白雪姫みたいに、すぐに良くなる。
毒イチゴはあっちへ飛んでった。
妹が出来るまで、ぼくは一人っ子の鍵っ子だったから、孤独な遊びに慣れ、孤独と友達だった。そんなぼくの王国に妹は無邪気に裸足で入り込み、乳と蜂蜜の付いた掌でべたべたとそこらじゅうを撫で回し、舌足らずにぼくを呼び、追い回した。
妹はいつもは母にべったりと纏わりついているくせに、母がいないとぼくの後を仔犬のようにクンクン鼻をいわせながらついてきた。
どうしてだろう。ぼくは不意に妹に悪さをしたくなる。
その年の夏妹は溺死した。
ぼくが殺した。
***
何か変な臭いしないか?って友人がぼくの部屋に這入ってすぐに鼻をひくひくさせた。いや、ぼくが先回りして、訊いたのだ。
友人は怪訝な顔をして、部屋を見渡し、寝乱れたベッドや、汚れた食器やグラスがそのままになったシンクを見やった。
ぼくはハッとした。不用意だった。しまったって。けれど友人はまだ気付いていないみたいだった。ぼくが気にしていた臭の在り処はその方向ではなかったから。
悪いな。散らかってて。何処かほかで呑まないか?
ぼくは友人を部屋には上げず、ショルダーバックを掴むと外に出た。
午後の日差しは黄色みを帯び、黄昏への予感を漂わせて、電信柱の影が長くぼくの足元に伸びていた。ぼくは黙って友と肩を並べて歩いた。
ぼくは自分の遺体を押入れに隠してあった。
それは勿論在り得ないことだし、夢に違いなかった。けれどありありと腐乱していくぼくの身体の臭いを嗅いだのは事実だった。だから悪夢を打ち消すために押入れのノブに手を掛け、呼吸を整えて静かに扉を開けたのだ。
そこにあったのは衣装ケースに入った季節外れの衣類や、客用の寝具、段ボール箱から溢れ出した書類やがらくた類。
もしそこにぼくの遺体があったら、ここにいるぼくはどんな存在なんだろう。
馬鹿な話だけれど、ぼくはその日以来何処かでびくびくしていた。押入れから腐乱臭が漏れ出ている気がしてならなかった。
少し痩せたんじゃないかって、友人が心配した。
このところ寝不足なんだ。眠りが浅くて、変な夢ばかり見る。
昨日見た夢の続きを見たり、夢の中で自問自答したりして、夢なのか現実なのか時々わからなくなる。
友人はぼくがどんな夢を見るのか知りたがった。彼はまったく夢を見ないらしい。眠りが深いから、やすやすとバクに食べられているに違いない。
兄貴がさ、すぐ帰って来いってうるさいんだ。今度の土曜日付き合ってくれないか?って友人が頼んだ。
久しぶりだからお前にも会いたいって言うんだ。いいだろ?
何故ぼくまでって思ったけれど、断れるわけがない。ぼくにとっても彼らは家族と同じだったからだ。
おふくろが去年からどうも様子がおかしいらしいって話、したよな。一度迷子になってから、外出しなくなったらしい。
その日もいつもの公園沿いの道を散歩していて、気持ちがいいからもう少しって軽い気持ちで、気付くと知らない町にいた。そこは何時しか黒い運河沿いの道で、そのうち日も暮れてくる。怖くなって早足でもと来た道を引き返したが、見たこともない堤防に遮られて先へ進めない。
何時の間にか大きな十六夜の月が煌々と出ていて、箒を逆さにしたようなケヤキの根方で心細くなってただただ泣いていたんだって。
すると何処からか童女が現れて毬を撞きながら数え歌を唄う。その歌詞は聴いたことがあるようだけれど思い出せない。童女は時折股の間に毬を潜らせながら、両手で器用に毬を操ってケヤキの周りを楽しそうに回るので、わたしにも撞かせてって、おふくろが言うと毬を差し出して手招きする。
立ち上がって歩み寄ると、月明かりで伸びたケヤキの影から今まで隠れていたおふくろの影が現れて、童女が嬉しそうに駆け寄り飛び跳ねて、
今からあなたがオニ!って、おふくろの影を踏んだ。
近々わたしは死ぬに違いないっておふくろが言うんだ。
そんなの夢を見ただけだって兄貴は笑いとばしたんだけど、見たこともないサッカーボールを抱えていてぞっとしたって。
それから母は誰かが一緒じゃないと外出しなくなった。
ところが、しばらくして兄貴は締めたはずの裏口の鍵が時々外されているのに気付いたそうだ。おふくろに問いただしてみても知らないって言う。けれどおふくろの外套から夜の匂いがするんだって。
いいだろ。今度の土曜日。
何故だろうな。お前や、お前の妹のこともよく話すそうだ。お前に会いたがっているっていうんだ。
***
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