先日、シンフォニイホールでサムラゴウチの交響曲ヒロシマは、まさに「死と再生のものがたり」でした。
いきなり「死の町」が現れ、それは春に見た陸前高田の海辺の風景そのものでした。
音は、怒りとなり哀しみとなり、絶望となりあらゆる感情を抉りつづけながら、それは耳鳴りの轟音であり、サムラゴウチそのひとの人生を描きだしながら、耳が聴こえなくなった「無音の世界」に突如、襲われてこころが震えました。 ベートーベンは、最後に「歓喜」を見出しますが、これでもかと続いた苦しみの果てに辿り着いた第三楽章のフィナーレは、慈愛のようにやさしい光でした。
闇を深く見続けてきた果てに辿り着くことができた暖かいひかりのような弦の音に、涙が止まりませんでした。最期の鐘の音は、まさに「祈り」でした。
コトバを持たない音楽の美しさは、「浄化」のプロセスをともに感じる一過性かもしれません。
会場から、サムラゴウチが舞台にあがり、拍手は鳴りやまず、総立ちになって30分、凄いエネルギーをもらって帰ってきました。再生の力が、そこにありました。
恐るべし、サムラゴウチの世界でした。
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